2015年12月31日木曜日

物乞い、BOBO、目線、光の日

よく行く近所の食品店の前に、いつも座っている年のころ60代前後の女性がいる。段ボールや毛布にくるまれて、道ゆく人、特にその食品店に入っていく、もしくは店から出て行く人に声をかけ、物乞いをしている。「Bonjour, 食べるためのお金をください。Bonne santé(あなたによい健康を)!」
パリに住んでいた時もそうだったが、フランスでは道端で物乞いをしている人を見ることは日常茶飯事。それでもわたしは物乞いの前を通るとき、いつも少し居心地の悪い気持ちになり、今になってもあまり慣れない。
わたしは食品店でその女性の前を通るときも、いつも困ったような気持ちになって少し目をふせて足早に歩いていた。

ヴェネツィアのこうもり

先日、クリスマスの買い出しで夫とふたりでその店に行ったとき、いつものようにその女性が店の前に座っていた。「Bonjour, 食べるためのお金をください。」といつものようにわたしたちに声をかけてきた。わたしが目を伏せて通り過ぎようとした時、夫がその女性に「Bonjour」と挨拶を返した。その女性がいつものように「Bonne santé(あなたによい健康を)!」と言うと、彼は「À vous aussi(あなたにも)」と返していた。

ヴェネツィアの路地

なぜ今まで、わたしはこの当たり前のことに気がつかなかったのだろうと愕然とした。フランスでは、わたしは毎日毎日、通りすがりの人、店の人、近所の人とこうやって、Bonjour(こんにちは)やBonne journée(よい一日を)なんて1日に何回も言い交わしている。物乞いだろうとそうでなかろうと同じことではないか。不審者なら話は別。だけれど、物乞いをしている人だからと言って、挨拶を返さず目をそらす相手なのだろうか。


フランス語でBOBO(ボボ)という言葉がある。これはブルジョワ・ボヘミアンの略、1999年にできた英語で、フランスでは、裕福な家庭で教養を受けて育つが、資産に縛られて意味のない習慣に陥るためではなく経済的な成功を楽しみながらも自由な精神を持った反逆者でありたいと思っている人たちのことを指す。
日本のファッション雑誌では、このBOBOという言葉がいかにもお洒落で憧れの対象であるかのように「パリのBOBOの素敵ライフ」なんて書かれて特集を組まれているのに当初は驚いたけれど、実はフランス人はこの単語を決して褒め言葉では使わない。少し皮肉をこめて揶揄する時に使う。人に聞こえたら馬鹿にしていると思われるからあまり大きな声では言わないで、なんて言われることもある。
裕福に暮らしているけれど、見るからにお金持ち臭い生活からは離れ、庶民的な地区に住み自由な職業に就き、文化的なことに興味を持つ人。人とは違う新しいもの、美しいもの、高級なものを買いたがる、”本物志向”。環境問題にも心を痛め、SNSでも声高らかに意見する。


じゃあなんで大きな声で褒めないのかというと、本物志向の本物が一体何なのかということを結局わかっていない人だと、フランス人たちは皮肉っているからなのだ。お金に余裕がある豊かで便利な生活は決して手放したくないが、自分は労働者と同じ目線を持っている視野が広く何にも縛られていないと自分で信じている人のことを揶揄する。例えば、環境問題に心を痛めてるけれど、スマートフォンやパソコンはいつも最新のものを持つ(これらがどれだけ環境問題になっているかは考えていない)…、遠い国の孤児たちに寄付はするけれど同じ国の低所得者たち用の施設建設には反対をする…等。昔ながらの職人が住む庶民地区が”誰にもまだ開拓されていないお洒落な地域”ということで、彼らが高級地区から越してきて住み始め、BOBOたち向けの店が次々と出来、その地区が注目され、そのために家賃が高騰し、職人たちは住めなくなってしまった…、そしてその地区に低所得者用の住宅の計画があがると猛反対したのはBOBOたちだった。
結局のところ、何も分かっていない人、何も本質を見ていない人、お金持ち臭さを嫌うけれどお金がないと何もできない人、こんな感じでフランス人はこの単語を使う。


物乞いのその女性に対する自分の態度をかえりみ、愕然とした。目を合わせ挨拶さえできなかった自分の態度に。
わたしはブルジョワではないしお金持ちでもないから、BOBOになんてなり得ないのだけど、それでも精神的なBOBO、自分の目線だけで物事を判断し、違う角度から物事を見れずにいること、遠くのことには心は広いけれど自分に関わる近くのことには自己中心的になること、には誰でもがなり得ると思っている。


ヴェネツィアでこうもり2


できることから少しずつやっていこうと思っているものの、自分のやっていることのあまりにも小ささに途方もない気持ちになることがある。自分のやろうとしていることと、自分がやっていることの大きな差に気づき、愕然とするときがある。自分の弱い部分、醜い部分に目をふせたくなってしまうことがある。目線の高さ変えることで違う世界が見えるということを忘れている時がある。

2015年も残すところあと少し、やり始めたばっかりでまだまだ終わりがみえないこともたくさんあって少し溜め息をつきたくなることもある。それでも、こだわってるもの、わだかまっているものが少しずつなくなっていて、ああ楽になったな〜なんて思えるなら、少しは自分を赦し、手放すことができているということだろうか。

ヴェネツィアでは至る所でカトリックの街であることを感じる

今年2015年の最後、クリスマスのバカンスで訪れたヴェネツィアで、ある光を見た。それは芸術によってもたらされた光で、その光はわたしに美しさに対する大きな価値観の変革を与えた。まだその光から受けたものはわたしの体内でどくどくと波打ち躍動しているので、また落ち着いたらここに書いてみたい。


フランスではクリスマスは家族と一緒に過ごす日、大切なものを分かち合う日とされていて、いわば日本のお正月のようなもの。1年で一番大事な日だというフランス人が多い。クリスマスはその昔、光の日だと言われていた。
その日に大切な人から贈ってもらった言葉を、今度は日本の光の日に、わたしから日本の大切な人たちへ。迷いの中にいるわたしの大事な人へ。

幸せいっぱいの光があなたを照らし続けますように。
その光が、喜びと魂の平穏、思いやりと明晰さ、忍耐力と寛容さをあなたにもたらしますように。
その光が、あなたに合う道を照らしますように。
あなたが持つ長所と多くの才能をあなたが自分自信で見ることができますように。
愛をこめて。

2016年も愛しい日々の連続を♡

ヴェネツィアで感じた光とともに



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