2016年5月8日日曜日

Parisに在るもの 中編

(続き Parisに在るもの 前編)

二度目にParisの街を訪れた時から、なぜかここの土地を踏むといつも、ああ、やっと帰ってきた、と思う。これについてはただの懐古趣味的センチメンタルかもしれない。Parisには大好きな女友達が二人住んでいる。Cyril以外で、このふたりと会う時だけはわたしはフランス語でも饒舌になれる。

2年半ぶりに会うセリーヌの、初めて会う子供。パパが大好きすぎる2歳。それはもうよく喋る喋る。ママもパパも彼女には何かしらきちんと質問形式に会話をするので、もう受け答えがきちんとできる。Non!は何よりもはっきりと伝える。すでにもう立派なパリジェンヌだ。すでに立派にこまっしゃくれている(笑)

それにしてもなぜ親友という生き物たちは、日本だってフランスだって、揃っていいお母さんになるのだろうか。



わたしが一度目の結婚で離婚を決めた時、酔っぱらっていたかなんかで”わたし離婚する!”と日本から携帯でゾエに連絡したことがあった。「Ayami、酔っぱらってるでしょ。みんなね、離婚しちゃう。フランスなんて半分は離婚するんだよ。それってほんとうに寂しいことだと思う。そんな簡単に離婚したらだめだよ。」とわたしをたしなめた。
わたしはもちろん彼女の忠告を聞かなかったが、そういう彼女も、半年後に離婚したw 自分もやん!って、その時はどれだけ笑いながら彼女をなじったかしれない。
今回、テロのこと、菜食のこと、いろんなことを話して、話して、またゾエのことを好きになった。



この日はCyrilのいとこのジルの家に遊びに。手料理をご馳走してもらう。とはいえ、一人暮らし、仕事バリバリの彼はプライベートも仕事も一緒くた、広いアパルトマンなのに、趣味と仕事のガラクタ(としかわたしには見えない、ごめんw)でギュウギュウで、最先端の料理器具を使いながらピカールの冷凍食品も駆使しながら、それでもちゃんと前菜、サラダ、メイン、デザートって用意してきちんとひとつのコースを用意してくれている。こういう文化は男でも女でもフランス人に自然と根付いているんだろうな〜といつも関心する。始めから終わりまでもうずっと喋りっぱなしで、食べ過ぎでなのか、笑い過ぎでなのかもはやわからないけれど、お腹を抱えながら笑って完食。アペリティフにジルおすすめのシャンパーニュの梅酒割り、初体験。フランス人ってけっこう梅酒好き。
帰り道、ジルにも早くいい人をって、Cyrilは親戚のじじいみたいなことを言っていたw



セリーヌは髪を切ったばかりのわたしに、前のわたしの髪型の写真を見て、「これ、日本人がよくしそうな髪型だからあんまりよくない。今の方が全然個性的でいい!」という。とりあえず憎まれ口をはさみながら、個性的であることを褒める。でもやり過ぎで下品なものはNon!(もしくはBeurk!:げ〜!の意味)と、ぜったいにみとめない。


バーだのベジタリアンカフェだの古着屋さんだのといっぱい行きたいところがあったのに、そういう計画は彼らからの誘いのSMSで結局のところ毎日ことごとく吹き飛ばされて、家に遊びに行ったりその辺の適当なカフェに入り浸って何時間も話し込んだりあっと言う間に時間が過ぎる。

こうやって懐古趣味的センチメンタルが育っていく。ナルシズムとロマンチシズムが混じり合った突発的な涙みたいなもの。もっとも、セーヌ河はそれを受け入れ流す寛容さを持ち合わせるほど慈悲深くはない。勝手に湿りたいだけのわたしたちは放っておかれるだけ。

とにかく。リリシズムと、ウィットと、ユウモアと、エピグラムと、ポオズと...、そんなものはなから気にせずに、セーヌは流れている。

後編へ続く

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